考え方ひとつですべてが変わる、というのは僕が大切にしている哲学の一つです。
運動のイメージといえば、ツラい、キツい、疲れているのに冗談じゃない、という感じでしょう。少なくともポジティブなイメージを抱く人は多くありません。どちらかと言えば、義務感だったり、健康のためや痩せるために仕方なくやるものだったり、できればやりなくないという人のほうが多いでしょう。
でも、本当にそうでしょうか。少なくとも僕はそうは思わないのです。というのも、運動にネガティブなイメージを持つ人は、間違いなく、運動にネガティブなイメージを持つキッカケが過去のどこかにあったはずだからです。
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない」
アルベルト・アインシュタイン
これは、相対性理論で有名な物理学者アルベルト・アインシュタインが残した言葉です。
私たちは学校教育において運動にネガティブなイメージを持つようになった、というのが僕の考えです。
運動ができる生徒には良い成績が与えられ、そうでない生徒には低い成績が与えられます。低い成績が与えられた生徒は「自分は運動ができない」という意識が植え付けられたまま大人になるため、その後、運動の素晴らしさを実感することはなかなか難しいでしょう。
そもそも、運動に対して優劣をつけることが間違っているとさえ思うのです。確かに足が速いのはカッコいいし、運動会のリレーに選抜されるし、注目の的にはなるでしょう。けれど、それと運動の優劣はまた別の話です。
そもそも運動が苦手な人などいない、苦手なのはただの思い込みと植え付けられた意識である。というのは、僕の揺るがない考えです。10年以上の指導経験で、運動未経験から驚くほどの成長を遂げてきた人をたくさん見てきたからこそ、自信を持ってそう言えます。
「パラダイムシフト」という言葉があります。23歳くらいの時に読んだ本「7つの習慣」に書かれている考え方の一つです。簡単に言えば、物事の見方が変わるということ。
以下は、著者のコヴィー博士の経験談です。
ある日曜日の朝、ニューヨークの地下鉄で体験した小さなパラダイムシフトを、私は今も覚えている。乗客は皆黙って座っていた。新聞を読む人、物思いにふける人、目を閉じて休んでいる人、車内は静かで平和そのものだった。
そこに突然、一人の男性が子供たちを連れて乗り込んできた。子供たちは大声で騒ぎだし、車内の平穏は一瞬にして破れた。男性は私の隣に座り、目を閉じていた。この状況に全く気付いていないようだ。子供たちは大声で言い争い、物を投げ、あげくに乗客の新聞まで奪いとるありさまだ。迷惑この上ない子供たちの振る舞いに、男性は何もしようとしない。
私は苛立ちを抑えようにも抑えられなかった。自分の子供たちの傍若無人ぶりを放っておき、親として何の責任も取ろうとしない彼の態度が信じられなかった。他の乗客たちもイライラしているようだった。私は精一杯穏やかに「お子さんたちが皆さんの迷惑になっていますよ。少しおとなしくさせていただけませんか」と忠告した。男性は目を開け、子供たちの様子に初めて気付いたかのような表情を浮かべ、そして言った。
「ああ、そうですね。どうにかしないといけませんね… 病院の帰りなんです。一時間ほど前、あの子たちの母親が亡くなって… これからどうしたらいいのか… あの子たちも動揺しているんでしょう…」
その瞬間の私の気持ちが、想像できるだろうか。私のパラダイムは一瞬にして転換してしまった。突然、その状況を全く違う目で見ることができた。違って見えたから違って考え、違って感じ、そして、違って行動した。
今までのイライラした気持ちは一瞬にして消え去った。自分の取っていた行動や態度を無理に抑える必要はなくなった。私の心にその男性の痛みがいっぱいに広がり、同情や哀れみの感情が自然にあふれ出たのである。
スティーブン・R・コヴィー著 「7つの習慣」より引用
物事の常識というのは、一度疑ってみる価値は十分にあります。動物的に反射で物事を考えるのではなく「本当にそうなのか?」というワンクッションを入れて考えてみる。
そうした習慣を持つことで、一つの側面しか見えなかったことが、多角的に見えるようになり、新たな事実さえも見えてくることがあります。